脱オタクファッションの限界


この4年間脱ヲタ道を邁進してきたけど、どうも限界を感じつつある。
確かにいい服は揃った。
着まわせる量もある。
ファッション雑誌を読み、ある程度の組み合わせはちゃんと出来るようにもなった。



でも、決定的に足りない部分がある。
ソレは・・・何と言っていいか・・・うまい言葉は見つからないんだけど・・・
何と言うか「リアル感」というか・・・。
つまりは、ソレを「着る」んじゃなくて「着こなす」。
いや、着こなしの知識はある。
そうじゃなくて・・・知識とかじゃなく・・・。
何と言うか・・・「感覚的に着こなす」「自然に着こなす」・・・。
つまり「知識」としての着こなしじゃなくて「ライフスタイル」としての着こなし・・・。
上手いこと言えないけど、そんな感じだ。



そしてそんな「リアル感」の根本は、断言すれば「音楽」と「スポーツ」じゃないだろうか。



「何を唐突な」という意見は甘受する。
「極論過ぎる」という意見も頷ける。
でも、確かに今のオレに、そして「脱オタクファッション」に足りないのは「音楽」であり「スポーツ」であり・・・つまりは「ライフスタイル」じゃないだろうか。
そう思うようになってきた。



実際ファッション雑誌を見てて思うのは、「ファッション」と「音楽」と「スポーツ」には密接な繋がりがあるという事だ。
例えばユナイテッドアローズの栗野宏文氏は、「音楽が一番好き。ファッションは二番目。」と断言している。
「(一番好きな)音楽を仕事にしなかったのは、仕事で追い詰められたときの”癒し”として取っておきたかったから」とも語る、筋金入りの音楽好きだ。
音楽プロデューサーである藤原ヒロシ氏が、往々にして「ファッションカリスマ」として雑誌に紹介されているのもそう。
雑誌で語っている洒落者の人々の多くが、音楽やアーティストに着こなしの影響を受けたと証言している。
スポーツにしてもそうで、雑誌に載るような多くのファッション業界人は、何かしらのスポーツが好きな人が多い。
例えばソレは「サーフィン」であり「アウトドアスポーツ」であり「ジョギング」であり・・・とにかくそんな運動好きの人々が大挙して雑誌上を賑わせている。



考えてみたら、今日のカジュアルファッションには「音楽」と「スポーツ」を起源とするアイテム、スタイルが多い。
「モッズスタイル」はモダンジャズ、「パンクス」はパンクロック、「B系」はヒッポホップ。
カジュアルアイテムの王道であるジーンズも、ファッションとして履かれるようになってきた過程には様々な音楽アーティストたちが関与している(エルヴィス・プレスリービートルズローリングストーンズ、ニルヴァーナ等)。
スポーツ起源のアイテムも、Tシャツ、ポロシャツ、スニーカー、スウェット、マウンテンパーカー、ダウンジャケット等々、枚挙に暇が無い。
過去のファッションムーブメントでも、例えば「陸サーファースタイル」はサーフィン、「ヘビーデューティースタイル」はアウトドアスポーツがモチーフになっている。
そう考えると、今日の日本でカジュアルファッションに身を包むと、必然的に「音楽」と「スポーツ」は避けて通れない道じゃないだろうか。



そしてその「音楽」と「スポーツ」は、オタクとは極めて相性が悪い。
「音楽(わけてもロックやヒップホップ等)」は、いわゆる”DQN”の文化であり、マジメ一辺倒(そしてそのマジメさは、往々にして「マジメにしないと”認めてくれない=生きていけない”」という「見捨てられ不安」からくるものなんだけど)な所謂”オタク”たちとは対極の文化だ。
スポーツはもう言わずもがなで、運動が苦手な(それゆえに学校内でスクールカースト下位に甘んじ、結果としてオタクに”成らざるを得なかった”)オタクたちとの相性は最悪だ。
つまり、そんな「音楽」と「スポーツ」と親和性の高い「ファッション」が、オタクと相性が「いいわけがない」のだ。
そう考えると、なぜ、所謂”オタク”が服に気を使わないか、その理由の一端が見えてくる。
確かに「洋服に使う金や知識を、全てオタク趣味に注ぐ」というのは大きな理由だけど、その一方で「音楽(DQN)」と「スポーツ(スクールカースト)」に直結する「ファッション」を、意識的あるいは無意識的に「避けている」という部分も否定できないんじゃないだろうか(「見た目ばっかでチャラチャラしやがって!大切なのは中身だよ、中身!」と毒づくオタクの心理)。



さて、そんなオタク・・・いや、もっと換言しよう。
そんなオタクだった”オレ”が、所謂「脱ヲタ」しようとした。
服に気を使うようになった。
そのうち、服を「知る」ことが面白くなった(オタクの本能と言うべきか)。
だけど、知れば知るほど、その後ろにある「音楽」と「スポーツ」という要素が立ちはだかってきた。
今の今まで「音楽」にも「スポーツ」にも全く関心を示さなかった、そして未だに関心を示すことが出来ないオレは、ココで躓いてしまった。



確かに着こなし「知識」は増えた。
でも、ソレはあくまで「知識」でしかない。
つまりソコに「精神」が宿っていない。
「ライフスタイル」が宿っていない。
「リアル」じゃない。
もっと換言すれば、単なる「コスプレ」に過ぎない。
「音楽好き」「スポーツ好き」な洒落者の「コスプレ」をしているだけ・・・。



そんな空しい感覚だ。




思えば、所謂”オタクたち”には「ライフスタイル」がある。
「オタクファッション」や「A系」「キバカジ」と呼ばれるのがソレで、例えばソレは「アキバやコミケで動きやすいためのルーズなサイジング」「大量に物を買い込むためのリュックサック」「アキバで一日行動するためのクッション性の高いシューズ」「極限まで被服費を削った(そして、その分の費用をオタク趣味に充てる)がゆえのズタボロな衣服」等々・・・。
そう、彼ら「オタク」は立派な「ライフスタイル具現者」であり、その意味で「音楽好き」「スポーツ好き」の洒落者たちと全く同じだ。
着ている服に「精神」が宿っている。
「ライフスタイル」が宿っている。
決して「オタクのコスプレ」ではない「リアルな着こなし」がある。
それは、考えてみたらスゴい事なんじゃないだろうか。
逆に、その「オタクのコスプレ」の例を見たいなら、映画版「電車男」の山田孝之を見てみるといい(参照)。
あの着こなしにオタクたちが覚えるような違和感は、逆を返せば「音楽好き」「スポーツ好き」がポッと出の「脱ヲタ者」に感じる違和感と同じなんじゃないだろうか(その感覚を当世風に表現するなら「必死だな(プゲラ」といったトコか)。
彼らにしてみたら、オレのような音楽にもスポーツにも関心を示さない(示すことが出来ない)「脱ヲタ者」は異物であり、必死になって洒落者の「コスプレ」をしている、中身すっからかんの「オタクの成れの果て」でしかないんじゃないだろうか。
そう考えると、何か非道く空しい気分になってくる。



「オタク」でも「音楽」でも「スポーツ」でもない、新しいオレのライフスタイル・・・。
一体そんなのが本当にあるのかどうか分からない。
それを見つけ出すことが出来れば、さらに壁を突破することが出来るんだろうか・・・・・・。